UFO in '70s
1970年代のUFOブームについて
70年代のUFOとポストモダン
※この記事は2019年9月にブログに上げた記事の書き直しです。

前にこのブログで、70年代のUFOムーブメントとニューエイジの萌芽(?)について少し書きましたが、そういえば別の側面というか、この種のこの時代の潮流みたいなことについて言えば、やはり「ポストモダン」についても考えなくてはなあと思いました。もちろん、僕がそれを解説できるわけではないので、とりあえず、2006年に出版された『UFOとポストモダン』 (木原善彦著/平凡社新書/2006年) の僕なりのまとめを記します。
その前に、まず「ポストモダン」についてググりました。いっぱい解説がでてきます。
キーワードとして「大きな物語」というのがあります。「大きな物語」に準拠していたのがかつての「モダン」だとすれば、それに対して「大きな物語」への対抗姿勢をとるのが、その次の「ポストモダン」であるということでしょうか(多分スゴく大雑把です)。ジャン=フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』(1979年)という本で提唱されたらしいです。
リオタール自身は哲学界の潮流(哲学の有効性)についての言及としてこの用語を使ったのかも知れないですが、成否はともかく、それを人間社会や世界情勢に当てはめて上手く説明できるというのがミソなのかなとも思いました。
そういうモダンからポストモダンへの転換点となる時代があって、そして70年代のUFOも、その渦中にあったということです。
『UFOとポストモダン』の著者である木原氏は第2章で以下のように書いています。
議論の見通しをよくするために結論を先に述べておきましょう。 近代のプロジェクトを発展的に継続していくべきか、 それともいっそのこと放棄すべきか、 という問題に対する 解答はいまだに議論の的となっていますが、 UFO神話の1970年代における転換は大衆文化がこの問題に与えた解答の変遷を反映しているというのが私の考えです。 すなわち、 UFO神話においては、 近代のプロジェクトを継続しようとする態度が70年代初頭まで 続ぎ、 以後近代のプロジェクトが放棄されたと考えられるのです。 転換点は明確には定めがたいのですが、 ピープルズが空飛ぶ円盤目撃騒動の最後の年としている 「1973年」をその目安とすることがでぎるでしょう(『UFOとポストモダン』P34)
「近代のプロジェクト」とは、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスの用語で、科学の力、すなわち合理的な形態の社会組織や合理的な思考様式を発展させることによって、人間は古い神話や迷信や権力から解放されるとする楽観的信念に基づく人類のプロジェクトであったのですが、実際にはそれは幸福を呼ぶどころか、世界大戦や原爆へと導いたという反省へと至ったとしているものらしいです(P31)。この「近代のプロジェクト」が「大きな物語」ということでしょうか。
引用で「UFO神話の1970年代における転換は大衆文化がこの問題に与えた解答の変遷を反映している」という部分が、つまり、世界の潮流が「大きな物語の終焉」に向かうに呼応して、1970年代に、大衆文化が主体となってUFO神話の転換を起こしたということだと思います。
ところで、木原氏は「ピープルズが空飛ぶ円盤目撃騒動の最後の年としている 「1973年」をその目安とする」と書いていますが、『人類はなぜUFOと遭遇するのか』(カーティス・ピーブルズ 著、皆神龍太郎訳/文春文庫/2002年)には、例えばどのように書いているか、日本語文庫版を持っていたので見てみました。引用しますと、以下のような文章です。
ここでもうひとつ考えられる可能性は、空飛ぶ円盤神話それ自身が変化したのではないか、ということである。
1970年代から80年代にかけ、円盤事件の強調点は、アブダクションやミューティレーションや墜落事件への移行していった。これまでのUFO報告の大部分を構成していた「空飛ぶ光点」の目撃報告といったものは、もはや重要とは考えられなくなっていた。
大衆文化もまた、この変化を反映していた。
1980年代には、空飛ぶ円盤のテーマが「未知との遭遇」のパターンから、「我々の中にいる異星人」といった主題の円盤映画へと取って代わられていた。『ストレンジ・インベーダーズ』『ヒドゥン』『ゼイリブ』と『エイリアン・ネイション』といった映画が、その流れに含まれている。(『人類はなぜUFOと遭遇するのか』第18章 エイリアン・ネイション /文庫版P554)
さらに、『UFOとポストモダン』のそのあとのページで、ボードリヤールのシミュラークルを引いて説明している部分は、これらを補完する説明となっているとともに、70年代のUFO神話の変化の次の段階を示しているようで面白いです。
まず、木原氏はボードリヤールの、画像及び記号の4段階を『シミュラークルとシミュレーション』から引用して説明しています。4段階とは以下です(部分的に筆者補足)。
第1段階:画像/記号はひとつの奥深い現実の反映
第2段階:画像/記号は奥深い現実を隠し変質させる
第3段階:画像/記号は奥深い現実の不在を隠す
第4段階:画像/記号は断じて、 いかなる現実とも無関係
そして以下のように説明します。
UFO神話はここに挙けられたイメージの四つの局面を順に第三段階までたどっています。すなわち、第一段階では、超越的な性能を有する航空機(そしてそこに乗った未来のユートピア人としての宇宙人)という認識、第二段階では、第一段階で見えていたのは実は偽りの姿だった(ミューティレーンョンやアプダクションに見られる悪意や政府との共同謀議の存在)という認識、次いで第三段階では、空飛ぶ円盤は空飛ぶ円盤の不在を隠すための虚構、見せかけとしての見せかけ、おとりだったという認識です。(『UFOとポストモダン』P82,太字は筆者)
そして、木原氏は続けて次に来る第四段階は、UFO神話が完全にハイパーリアル化する段階だと説明します。
第三段階までは現実と見せかけの二元論だったわけですが、この第四段階ではシミュレーション一元論となり[...略...]現実の何かを指し示すのではない記号、すなわち「シミュラークル」のみということになります。(前掲書P82)
この対応付けが正しいかどうかわからないですが、僕自身が70年代初頭に感じていたUFOそのものへのワクワク感(本当に宇宙人が来ているかも)から、70年代後期に感じていたUFO噂話の「ありよう」へのモヤモヤ感(UFOはともかく、政府もマスコミもけしからん)への変化と、そしてさらにその後の80年代かそれ以降から現在に至って完全にUFOの実体とは関係ない一種の記号遊び(このブログ?)へと変化していくありようと重なるなあと思うのでした。
木原氏は「あとがき」で、「この研究の目的は、何よりもまず移り変わる神話の大きな流れを見つけることでした。」(前掲書P201)と書いています。ポストモダンを例えば脱構築といった積極的アクションの側面でとらえるわけではなく、あくまで時代潮流としてとらえていますし、なぜそうなったかということには答えていないように思います。しかし、そこは多分とても深い議論なのだろうなと思います。
ところで、著者の木原善彦氏は、この10月に開催される京都SFフェスティバルで「実験小説を語る(仮)」というイベントに登壇されるようです。是非参加して話をうかがってみたいものですが、僕はSFファン人というにはおこがましく、参加していいものか悩み中です。
今回は以上です。
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