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不識、喫茶去

日本画と文化について

原三渓の美術収集

2026年1月11日

※この記事は2019年9月にブログに上げた記事の書き直しです。

少し前になってしまいますが、横浜美術館の「原三渓の美術」展を見てきました。

かつては原氏がコレクションしたものであったけれど、その後散逸したものを、あらためて集めて展示するという面白い企画の展示です。また、横浜という土地にとって、原氏の功績は大きなものであったと知り、横浜美術館がこの企画を行うということには単純な美術展とは別の意義もあるのだと感じました。

「原三渓の美術」展チラシ
「原三渓の美術」展チラシ

さて、明治以降、まあ財閥と言えばそれまでなのですが、鉄鋼にしろ生糸にしろ外国貿易などで大きな事業を成し遂げた人々の日本国家への貢献は大きなものでしたし、同時に、そういう方たちが、日本の伝統美術工芸に関心を抱いて、純粋な美術愛であるかどうかはともかく、貢献をしてきたことも忘れてはならないわけです。

一方で、実際のところ、財閥系の人たちが日本の美術工芸品を買いあさって、やがて没落し美術品は散逸していくというドラマのようなことが、その時期普通に起こっていたわけです。

僕が、そういった収集と散逸の流れに最初に少し関心を持ったのは、光悦+宗達の「鹿下絵和歌巻」をサントリー美術館で見たときでした。前の記事でも書きましたが、きれいに修復されたその長大な作品は、全巻の約半分をアメリカのシアトル美術館が所蔵しています。残りの半分は日本にあるものの、茶道家たちによって断簡として断ち切られ、実質的に一巻であったものが散逸しています(美術館としては山種やMOAやサントリーにあります)。

戦後、シアトル美術館の当時副館長シャーマン・リーの働きで「益田家」から、これを買い上げました。おかげで、この半分はまるごと美しく保存されたという話です。

しかし、その「益田家」とは何なのか?「鹿下絵和歌巻」の話を知った時点では、近代史に疎い僕は実は知りませんでした。

ウィキペディアによれば江戸時代から数々の事業を行ってきた三井財閥を明治から昭和期にかけて支えた実業家益田孝氏(旧三井物産の初代社長)のことであることがわかります。そして、かいつまんで言えば、益田孝氏が美術品を収集を主に進めたのですが、その死後に第二次大戦敗戦で財閥解体を目的とする財産税を課せられるなどあり、子孫たちは美術品の多くを手放さざるを得なくなったという経緯のようです。

つまり、益田家について言えば第二次大戦敗戦によって収集品を手放すことになったわけです。では原三渓の場合は、手放すきっかけは何だったのか。この美術展の図録などによると、関東大震災ということです。関東大震災により横浜も壊滅的な状況となり、原氏は横浜復興のために尽力し、そのため震災以降は美術品の収集はあきらめざるをえなかったとのことです。

先に悲しい話を書きましたが、それとは真逆の時期、原氏が熱心に美術収集していた時期の話を読むと、そのコントラストに愕然とします。その辺の経緯は図録の論文でも知ることができますが、『幻の五大美術館と明治の実業家たち』(祥伝社新書/中野明/2018年)は、筆者の幅広い文献研究のうえで、やや憶測も交えて物語られていてとても面白いです。

原が美術品収集家として一躍その名を馳せるのは、1903年(明治36年)のことである、ほかでもない、前章で述べた井上馨から仏画の一品「孔雀明王像」を1万円で譲り受けた一件のよってである。(『幻の五大美術館と明治の実業家たち』第2章)
原氏はこの時35歳という若さで、当時の1万円というのは、現代の金に換算して1億円だそうです。上の引用で「前章で述べた」という部分も引用すると、このころの人間模様が見えてきます。

井上はこの「孔雀明王像」を売却してでも、某氏が所蔵する古仏画「虚空蔵菩薩像」をどうしても手に入れたいと考えていた。そこで井上は箒庵こと高橋義雄に、「孔雀明王像」を一万円で買う人物がいないか打診したのである。(前掲書 第1章)
そして、

高橋は三井での先輩でもあり茶敵でもある益田にこの話をした。[…略…]1万円とはかなり高い。益田は高橋にこのような意味のことを言ったという。
「まず原にこれを示せばよかろう。それでも原が購入しないならば、井上候に幾分の減額をお願いして、私は引き取ることにしよう」[…略…]
おそらく益田はさすがの原もこの幅に1万円を出すことはなかろう、と踏んだのだろう。(前掲書 第1章)
ここで前述の益田孝氏が登場しました。著者の中野氏はこの本の中で、益田氏のしたたかさについて何度か言及しており、この場面でも、値切る算段で原氏の名前を出したとしています。ところが、井上の思惑に反して原氏はこれを購入してしまったという話です。著者はあくまで、この値切りの件は自身の「推測」だとしていますが、面白い話です。

著者は、この高橋義雄氏が『箒のあと』という著書で、「孔雀明王像」のことを以下のように書いているのを引用しています。ここでそれも引用したいと思います。

— — この仏画の彩色は、全て鉱物の粉末を使用して居るから、夜分になって電灯に映ずれば、五彩燦爛人目を眩して、其荘厳美麗なる事、此の世とも思われぬ程であったので、私は自家所蔵品の総てを売り払って、この一幅を所持しやうかと考えても見たが、井上候に対する思惑もあり、且商家使用人の微分として、余りに僭上の沙汰だと思ひ直して、到頭原氏を勧誘し。井上候の希望通り一万円にて買収せしむる事とした — — 『箒のあと(上)』高橋義雄
「孔雀明王像」の魅力だけでなく本人を含む人間関係がわかる興味深い文章です。

そして、その「孔雀明王像」を今回の美術展で見ることができました。高橋氏の言うところの「夜分になって電灯に映ずれば、五彩燦爛人目を眩して」とは截り金のことでしょう。

孔雀明王がつけている装飾品の金色も素晴らしいですが、着衣に施されている細い截り金の模様は、実際、電灯の光などを動かしながら見るときらめきが美しいだろうとわかります。

今、我々が、その精緻な技巧をじっくり鑑賞できるとは、なんと幸せな時代に生まれたものだと思います。

原三渓については、NHKの日曜美術館でもこの展覧会とともに紹介されていました。三渓園を作って無料公開したことや美術館の構想、「三渓帖」の構想、その地を一種のサロンとし、横山大観や下村観山らを支援したこと、そして自身も日本画を描いたことなど、実業家としてだけでなく多くの魅力のある人物であったのだと知ることができました。